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視座の違いを意識する [思考法]

お久しぶりなブログです。
今日はここ最近で思い至った考え方の話をしようと思います。

仕事をしている時の自分の立ち位置や視座の高さを振り返るときに、

・クリエイター
・チェンジャー
・プレーヤー

という3つの層で捉える考え方です。
例にもなりますので、思いついた経緯としての近況をなんとなく話して説明していきます。

僕の勤務先では監査法人が四半期ごとにきて、四半期決算の監査を行います。
僕らは決算処理と開示書類の作成を行いながら、監査対応として質問に答えたり、会計データの修正をしたりします。
僕は基本的に実務担当者として作業を進めるのが主な担当なのですが、上司や監査法人の人とのやり取りが起きて、会計上の見積もりを修正したり、集計方法を変更したりするたびに、数字を修正してやり直すという事がたびたび起きます。
締め切りギリギリまで、「今更これ直すの?」という基本的なことが後から後から降ってきます。

露骨に言うと、振り回されます(笑)

「あぁ~俺はなんで振り回されてるんだろ」とか、
丁度、moto氏のvoicyなんかで「視座を高く」する大切さとか言っててピンと来てなかったけど、
とにかく自分にそれが足りないという事だけが分かっていて何となく考えていたりして思いつきました。


さて、さっきの監査対応の悲しい状況において、僕はプレーヤーです。
プレーヤーは所与の枠組みの中で最適化をするのが役割の限界です。
どれだけ僕が上手く計算方法を最適化しても、目標数値が変わった瞬間に、再度最適化の方法を考えなおしたり、あるいは再計算することを強いられます。



上司や監査法人は、チェンジャーです。
チェンジャーは何が正しいのか、その枠組みの再定義をすることが出来ます。 ですが、枠組み自体は存在することが前提となっています。
例えば、ある決められた会計処理をすることは当社と監査法人の間で共通認識という形で前提になっていて、そのための正しい集計方法について話し合ってる場合なんかがそうです。


では、クリエイターは誰かというと、
そもそも四半期ごとに監査対応を受けるという事を決めたCFOや、
そもそも事業自体を始めた社長が該当します。
クリエイターがやっているのは意思決定で、枠組み自体の存在有無を決定します。
チェンジャーもプレーヤーも、枠組み自体が存在しなかったら何もできません。
そもそも上場するという意思決定をしないで、監査も無かったら、監査法人も必要ないし、僕の作業も必要ありませんね。


この枠組みで考えると、
プレーヤーの僕としては、チェンジャーによって枠組みが最終確定するまでは何度作業してもやり直しになってしまうことが簡単に想像できます。
だから自分の仕事を早く済ませるためには、 自分もチェンジャーになって最終確定のための議論に参加するのが一番です。
早くちゃんとプレーヤーのための枠組みを確定させることです。
プレーヤーはいくら戦術が優れていても、目指しているものが不正解であれば、
上手な不正解を出すだけで終わりになってしまいます。
一切参加する余地が無い場合は、最終確定するまでちゃんと待ってから作業すれば二度手間は生じにくいという考えになります。

クリエイターになって、枠組みごと・・・つまり監査対応や議論ごと消し去ることは現実的にできそうにないですが、正しいと言われた数字をただ集計するのではなく、「そもそも何が正しいのか」の議論に参加することは何とかできると思います。


というわけで、ただ言われているがままに作業していると、指示や想定が間違っていた時に、一番面倒をこうむったりするプレーヤーの僕らは、自衛のため、そして何より自分のレベルを上げていくために、そもそもやる意味があるのか、それが正しいのかどうか、考えていく必要があるのだと思います。

チェンジャーの役割は基本的に、マネージャークラス(=問題を発見したり、何が問題なのかを切り分けて定義する立場の人)が担っていると思います。出世のためには、自分も規模が小さくても何らかの形で再定義しなおす思考や意思決定の訓練をしていく必要があるなと思いました。

今日はこんなかんじで。皆さん実りあるGWを。(笑)




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これで周りの人に差をつける!仮説検証思考 [思考法]


いくつか隙を見て「考え方」に関する記事を書いていこうかなと思います。
まずは、仮説検証思考についてです。
固めの名前ですが、別に大した話ではなく、無意識に皆さんがやっているごく普通のことです。
ただそれを意識してコントロールしていけば、とても使えるんですね。
それでは説明していきます。

「仮説」という言葉を使いましたが、これは僕も含めた皆さんが、物事を処理したり問題を解いたりするときに使う知識や考え方全般を指しての言葉です。

極端な話、僕たちが何かを考える時に使っている知識や考え方は、僕たちが「正しいと思いこんでいる」ものであり、それが「世界の真理」として神様か誰かに与えられたものではありません。
そういう、半ば相対主義的ともいえる立場に立って「仮説」という言葉を使っています。

その仮説ですが、私たちは仮説に基づいた判断を行い、その判断を別の方法で「検証」をすることで仮説の正しさを確認し、妥当性を高めていっています。例をあげましょう。
例えば英文法の問題。自分が「usuallyがあるときは現在形だ」のような知識(=これが「仮説」)を持っていて、その知識をもとに問題を解きます。そしてその解いた問題を、問題集についている答えを見て採点(これが検証)します。

さあ、検証をするとその結果は判定不可能な場合を除き基本的に2つに分かれます。
1つは「今回、仮説が正しかった」という結果、もう一つは「正しくなかった」という結果です。

正しかったときは、「暫定的に仮説を保持」します。あくまで「暫定的に」です。次に別のものに対して同じように仮説が正しいといえるかはわかりません。それは保証ができないので、「仮説はいつも絶対的に正しい」とはいえないことにもなります。

間違った時は、仮説を棄却し(捨てて)、新しい仮説を作ります。
多くの人はこの新しい仮説を作る作業をしないで思考を止めてしまいます。
この作業は確かに難しいです。自分が最初に「こうだ!」と思ったものを一度崩して、それを別の喪に再構成しないといけないからです。自分が絶対的に正しいと思っている人には特に難しいでしょう。
大抵、仮説を作る際には何か根拠に基づいていると思いますが、新しい仮説を作ることは、その根拠に対し「再解釈」を施すということになります。

この再解釈ができる人は、例えば勉強をしていて問題を解いている時や、作業をしている時に、自分がミスをしていると気づくと、すぐに正しい答えに自力にたどり着けますが、できない人は自分が間違っていることに気づきつつ、そのままその答えを直すことなく放置してしまいます。

僕が英語を教えている生徒が、単語を並びかえて正しい英文にする問題で、明らかに間違っているとわかりながら、それでも正しい答えが分からずそのまま答えを書いてきました。
まさしく、自分の「仮説」(=英文法の知識とそれに基づく判断)が、検証(=この場合は自分の英語に対する一般的な知識)の結果、間違っているとわかりつつ「再解釈」(=自分の作った答えをリセット、あるいは修正して新しい答えを検討すること)ができていなかったわけです。

では、どうすればこの「再解釈」ができるようになるのか?
結論から言うと、自分の思考を完全にモニタリングできればよいのですが、簡単に身につくものではなく、私たちはともすれば「何となく」という感じで、自分の思考過程(どういう知識に基づき、どういう判断を下したのか)を明確に意識化しないことが多いです。
これを直すのは簡単ではないですが、コツというか、気を付けるべき瞬間のようなものはあります。
それは「間違った判断をする瞬間」あるいは「分からないなどの理由で思考をあきらめた瞬間」
です。どちらも「足を踏み外す一歩手前」という感じです。
合っているところを直す必要はありません。大事なことは、自分が足を踏み外す瞬間が「いつ」で、「何」を「どう考えていた」から足を踏み外したのかという3点になります。

「あ、ヤバイわかんないどうしよう」と思ったら、判断を下す前に、「自分は今ここで判断に迷った」ということをしっかりと記憶しておくべきです。メモ帳などに書いてもいいと思います。
そして、案の定間違えたときには「その瞬間どう考えればよかったのか」を考えましょう。自分でアイデアが出なければ人に聞いてもいいと思います。

新しい仮説はそうして作られ、その後徐々に日々の生活の変化に溶け込んでいきます。

長くなりましたが、みなさんには何とかして「再解釈」ができるようになってほしいものですね。
受験生とかは特にこの、仮説→検証→再解釈サイクルを完成させ、ひとりでに頭がよくなっていってほしいですわ(笑)


長くなりましたがこれで、またの機会を~
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