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人生を振り返る④ 小学校の話(中身) [昔の話]


はい、めっちゃ久々の更新だし、話が網羅できてるかわからないけど、適当にパパッと書いていこうと思います。

面倒だし、俺が書きたいように書き残しておくだけだし、前みたいなタイトル付けさえもやめようw


通っていた小学校は、神奈川県の田舎にある少人数の学校です。確か全校生徒が40人くらいまでに減って、「それもはや1クラスやん!」という感じの学校です。
俺の学年は最初11人、卒業時には2人転校していて9人になってましたね。
転校した2人(男子女子1人ずつ)については、その後は一切知らないので書きません。
最後まで残った9人は男子5人、女子4人、男女比は思ったより均等でしたね。

6年間このメンバーでずっと過ごしてました。あと少人数教育だったので割かしみんな勉強はうまくやれたと思います。そこは小学校の良かった点ですね。

まー、高学年になると男女で仲悪くなったり、特定人物のいじめがあったりしましたね。
僕はクラス内では割と中立的な立場にいたっぽいです。まあ女子は怖いとは思ってましたけど、女子が悪いとは思ってなかったって感じでしょう。今とあんまり変わらない感もありますが、当時はほんとにただの恐怖の対象でしかなかったのでやっぱり違う(笑)

僕の立ち位置はさておき、僕の学年における問題以外にも学校全体的にはいくつかの問題(教師による特定生徒のひいき、みたいな問題)がありました。
なんつうか狭いコミュニティ特有の問題も抱え込みます。田舎の学校は閉鎖度が増すと思います。


少し狂言の話をしましょう。皆さん知ってますかね。
能の演目のあ間に挟まれる風刺劇で、室町時代あたりの発達だったと思います。
簡単に言えば伝統芸能における「コント」に対応するんじゃないかと思います。
小学校3年の時に、国語の授業で出会いました。うちの地元は代々狂言座があり、そこの先生が来てくれたんですね。割と面白いと思ったんですよ。それが始まり。

地元は狂言と舞に関して、伝統が残っており、小学校ではそれを残す取り組みとして、それぞれのクラブがあったんですね。基本大多数(といっても10人くらいですが(笑))は舞で、狂言をやる人間は2人程度しかいなかったんですが、そこに新たなメンバーとして入りました。同学年の男子2人と3人で入って狂言により本格的に触れることになります。狂言座に入っている方に来ていただいて週1くらいで指導してもらいました。僕らは普段はセリフを覚えたり指導の復習をしました。

非常にいい経験だったと思います。小学校の文化祭なんかで発表もしましたし、地元の祭りで出し物としてやったこともあります。失敗もありましたが、それも含めて、大勢の人の前で声を出して何かをやるということの経験を積みましたね。おかげであんまり緊張はしません。
小学生の当時は確かに狂言に対してやる気を持っていて、卒業しても続けるつもりでした。
卒業式では1人1人スピーチをするんですが(普通の学校じゃありえないw)狂言の話でやったくらいですから。当時の僕はゲームとそろばんと狂言で構成されていたといっていいと思います。
高校まで続けていましたし、この辺りの話はまた今度で。

一通りバーーーっと書いたけど、実は書こうとして書くのをためらった話のほうが多くて薄い内容になっちゃってますね。もうちょっとえぐい話とかも書いていいんだろうか、決めるのは俺だしなぁ

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人生を振り返る③ 小学生くらいの時⑵ [昔の話]

よし、続きを書きましょう。今はこれが唯一のライフワークです。
生きた証を残して、また1つ俺の未練を断つ。


方針を変えて、小出しにすることにします。何となくそっちのほうがいいかなと思ったので(笑)



・弟が抱く劣等感の話

 昨日は小学生の頃のプライベートの話を書きましたね。習い事でプライベートなんてほぼ埋まってましたよ。後はゲームくらいです(笑)


 姉の話をしましょう。3つ年上です。習い事に関していえば、姉はピアノにバレエをやってました。芸術系といえばいいのかな・・・。姉は当時から明らかに優秀で、学業面で(ゲームとか他の面でも)僕は姉に対して長い間コンプレックスを抱き続けていましたね。
 比較されるんですよ。結構色んな場面で、色んな人から比較されました。そうすると僕自身が勝手に自分で比較を始めます。小学校も中学校も同じように上がっていきますから、評価軸は割と固まっていたように思うし、3つ姉は当然ながら常に自分より先にいるので、3年後の自分が3年前の姉を正確に振り返るという形での比較をしない限り、僕に勝機はありません。それでも負ける可能性があるのに(笑)それが分からなかった僕は、東大合格という、非常に分かりやすい転機が訪れるまで、英語に関しては今もですが、姉に対して学業面で劣等感を持ち続けることになります。



 さ、今日の話はこの辺にして、次こそは小学校6年間とその6年間を共に過ごした幼馴染たちの話をしましょう。自分の人生を振り返るって思ったより大変なんだなぁ・・・
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人生を振り返る② 小学生くらいの時⑴ [昔の話]

はいどうも、続きを書いていきましょう。


・通っていた小学校の話

通っていた小学校と実家は神奈川の田舎にあるわけですが、非常に少人数でした。
全校生徒が40人くらい(1クラスかよ)、僕の学年は入学当初11人(のちに2人転校)でした。

とにかく狭く、小さいコミュニティだったんですね。これが僕の社会性を作っていく最初の空間だったわけです。
1クラスたった11人に対して先生が1人で面倒を見ます。つねに少人数授業です。教育の質は十分に確保されていたといえます。僕が思うに、この小学校で授業を受けたことは基礎学力をつける上で大きなプラス要素でした。
女子5人、男子6人(のちに男女が1人ずつ転校)だったので男女のバランスも非常によかったと思います。クラス替え、という概念は存在しなかったので、6年間ずっと顔を合わせてました。

僕はまあ、背が小さいキャラです。(笑)とにかく落ち着かなくてよくしゃべるうるさいガキでした。今もあまり変わってないかもしれません。
背が小さいキャラって言いましたが、簡単に言うと「いじられ、少しエスカレートするといじめられる」立ち位置です。泣くこともちょいちょいありました。この立ち位置割と苦労するんじゃないかと思います。他を知らないので完全に自己中心的なものの見方をしていますが・・・

学校の話もさらにしたいんですが、プライベートと並行して語りたいし、話を一度変えます。
このパートは早めに触れたかったんです。長いけど

・習い事に通い詰めたことの功罪

小学生のころから積極的に習い事をやっていました。
具体的には、水泳・そろばん、空手、ミニバスケットですね。

水泳は確か小3~小4くらいまでだったと思います。少し曖昧ですし、自分からやりたいといったのか、親がやらせたがったのかは覚えていません。ですが、個人的にはなかなかに好きな習い事でした。
年の割に泳ぎの素質があったのか、Eコースという選手育成コース(こちらはYコースと呼ばれていました)の一歩手前のコースに小3くらいで入りました。コース内で最年少、さらにその年の水準で見ても体は凄く小さかったので、スポーツは基本的に苦労してます(これは人生を通してです。今後の振り返りにも大きく影響します。身体的特徴というものは、人生を大きく左右していると思いますね。)

コーチがすごく厳しくて・・・最初泣きまくってましたよ(笑)
でも厳しいだけじゃなくきちんとコミュニケーションを良くとってくれる人だったと思います。
でなければ、こんなに良い印象を持ってはいないでしょう。持っていない話が数年後に出てきます。
印象に残っているのは初めて「25mをノーブレで泳げ!」と言われたときの話です。ノーブレっていうのは、ノーブレス、つまり息継ぎなしで泳げってことですね。

初めていわれたとき、「無理だ」と言われました。案の定、12.5mしか泳げませんでした。
体も肺も小さかったうえに、僕は当時からメンタルの弱い人間だったんだと思います。詰められて一番泣きましたね。

ビート番でバタ足50m×10本が最初のメニューで、あとは結構日によって変わりましたが、普通のコースに比べて泳ぐ量も一段と多かったと思います。

小4くらいに、ミニバスをやらされることになり、水泳をやめないといけなくなった時は凄く残念でしたね。そのころには色々と板についてきて、これからだ、という所だったので。いや、もしかしたら当時はそんなこと思ってなかったかもしれませんが、でも今振り返るとそんな感触がするので、水泳は自分にとって良い経験でしたね。


よし次、そろばんの話をしましょう。
そろばんは小2くらいの時(少し曖昧ですが、小3よりは前です)から中1です。
一番長い習い事で、時間的な量でも、経験の質においても一番自分の人生に決定的な影響があったはずです。

最初に興味を持ったのは幼稚園の頃だったかと思います。幼稚園の近くにある個人経営のそろばん塾に通っていました。村井先生という、おばさまが先生をしていました。最初に入塾したいと伝えたときは「まだ少し早すぎるから小学生になってから、」という話をされ、小2くらいまで待ちました。

村井先生は大変優秀な指導者でした。今、僕も教育の仕事をしていますが、僕に最初に学校以外で本格的な教育を施してくださったのはこの方だったんですね。大変ありがたいことだったんだと今でははっきりわかるレベルで、しっかりとした指導、フィードバックを受けながら週に3回、月曜と水曜と土曜に1時間くらいの指導を受けてました。これで月謝3000円なんですよ。おかしい・・・あと8倍は出しても価値が釣り合ってます。当時は分からなかったんですが、今ではわかります。

そろばんをやっていたことが僕の人生にどのような影響を与えているのか、今の僕が振り返ると分かるのは2つです。
1つは、僕の基礎学力を飛躍的に高めたこと。東大合格の基礎になってることは明確です。
計算をしている時、いまだに僕の脳内はそろばんです。数学は一番の苦手科目だったんですが、それは計算ではなく、解法パターンの理解と定着が足りなかったんですね。計算力が強く試されるセンター試験ではしっかり9割台を出していましたし、計算力の観点で苦労を感じたことが一切ないのは間違いなくそろばんの経験が大きいです。ただ、計算が僕より早い受験生はたくさんいました。それは計算するときに僕が簡単な場合でもいちいちそろばんイメージしてるからですね。早い子はほとんどの四則計算に対して答えをほぼ覚えてるでしょう。

もう1つは、僕に勉強という道をそれとなく示唆したことです。スポーツではない習い事をこの時期(=多くの場合、小学生はこんな時期に塾には通いませんから)にやっていたという経験が僕にその後、学習でキャリアを積んでいくにあたり遠因的なきっかけとして影響していたんじゃないかと思います。スポーツで挫折の経験を積み続けた僕にとって、そろばんで結局初段までいったことは大きな励みになってます。もちろんスランプなんかもあったんですが、概ね一番納得のいくパフォーマンスを残して終わりにした分野なんです。上には上がいますが、それでもです。

そろばん塾には同じ年の友達も少し年上の生徒さんもいました、みんなそこそこ仲良かったですね~
同じ級に挑戦する1つ年上の先輩によく絡んでました。お兄ちゃんみたいなね
他の習い事でも一緒のやつもいたし、その数年後に中学で一緒になる子も数人いました。まあ地域が狭いので必然的に中学で会うのが基本なんですが(笑)

さて、次は空手ですかね。個人的には最も苦い思い出の習い事です。

齋藤塾、という市内の空手道場です。
はっきりしてるのは、僕が向いてなかったということですね。それでも2年くらいはやってます。

あと副館長(館長の奥さん)がおそらく根性論の持ち主で、やめるときとかすごいなんか言われてとにかく泣きました。
やめた理由はモチベーションの低下です。1級までいきましたが、昇給審査は僕の場合、型みたいな個人パフォーマンスで得点を稼いでたんですね。組手は案の定、めちゃくちゃ弱かったので、それしか道がありませんでした。当時から僕の側にも「背が低くて不利だしやりたくない」という自覚と諦念はありました。その代り、相手が実在しない型や普段のフォームには意識してました。柔軟性が低くて足全然開かなかったんですけど、その割にはしっかりできて、型試合で上の級の人に勝ったりとかもしてましたね。僕は自分の中で完結しているもののほうが向いているんだと思います。うわ

段に上がるには、組手も勝てないといけなかったんですね。これが僕がやめる一番の原因です。
もう無理だと、はっきりと感じていました。親はやめさせたくなかったみたいですが、当時は習い事のはしごでハードな生活もしていたのでとにかく嫌でした。普通の小学生じゃなかったですね明らか。あー訴訟


最後にミニバスの話。
親が中学の教員でバスケ部の顧問だったんです。話はそれがすべてと言っていいんだと思います。
口利きをして、『背が伸びる』スポーツだからと僕をたきつけました。僕は水泳をやめさせられ、こっちに入ります。

身長の伸びは小6で衰えます。小4と小5は10cm伸びました。これはミニバスのおかげなのかそうでないのかは、分からないでしょう(笑)
ミニバスのチームは、地元から離れたところ、地元の学区とは全然違う小学校でたくさんの小学生が通う小学校の学区でしたから、未知の所にぽーーーんと1人飛ばされました。心細かったなぁ
親のコネがあっただけです。当の本人に相手をしてもらったことってホントに数えるほどしかないんじゃないかなぁ。教員ってくそ忙しいんです。俺は絶対にやりたくない。まあ子供も持たないでしょうから関係はないんですが
もうお決まりの展開なんですが、バスケをチビがやったところで所詮不利なんです。背を伸ばすためにバスケをやるなんて愚かにもほどがあるんですね。バカの所業
経験を積んだので多少動き方とかの知識はつきましたが、技術はダメダメです。体力は少しついたかな、この頃には。ほんと体格で不利だから体力つけるくらいしか対抗措置がないんですよ。



中学の話は後でもしますが、周囲の大人は何かと僕に、「身長が高いやつこそがやるべき戦い方を、なぜか背の低い僕に押し付ける」ということをしてきました。僕はいやいやそれをやってきましたが、結果として得られたのは「俺はスポーツが全般的にダメだ」という劣等感が大きいです。楽しむことも忘れてしまいました。今では全くしてません。その素地を作ったのが、空手と、ミニバスだったんですね。水泳に関してはそれを抱かずに終わることができましたが、ミニバスをやってたころあたりから、特に自分の身長に対するコンプレックスによってスポーツに対する苦手意識が高まっていきます。それが中学に繋がるわけなんですね。


習い事の話はこれくらいにして今日もこれでお開きにしましょう。
次は、小学校のもう少し深い話をしましょうか。狂言の話もしていきたいし。僕のコンプレックスの話ではなくて、対人関係の様子について書き綴っておくのが次のパートの役目になるでしょう。
小学校までは、あくまで僕の遠因的な基礎の話。本番はそのあとからだ
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人生を振り返る① 幼少期の話 [昔の話]


はい、テーマものの記事です。早速始めましょう(前振りはなし)

・生まれてから5歳くらいまでの話

そんなに記憶はないです。(笑)
生まれてから最初の記憶は自分がベビーベッドで目覚めた時の光景です。今でも覚えてはいますが正確にそれがいつだったのかまでは覚えていません。恐らく2~3歳にみた一瞬の光景だったのではないかと思います。

1つ親から聞かされていたのは、僕は生まれてからしばらく、全然話さない子供だったみたいです。
今ではどちらかというとうるさい方なのに、最初は全く逆だったらしいですね。
あまりにも話さない僕を心配され、児童相談所に連れていかれた結果、
何の拍子にか僕は突然しゃべりまくるようになったということです。←

アリアリアーとか叫んでいて
昔から変な言動が目立ちましたが、漢字の読みは幼稚園年長あたりまでに割と身につけ始めていた記憶があります。(身近な地名は少し読めました)

あと、体が小さいことはこの頃からしばらくずっと一番のコンプレックスでした。
今でもそうですが、今は昔ほどは気にしていません。
まあ昔は「チビ!」「チビ!」としか言われませんよ。(その点、東大生だったり頭おかしいっていう属性がはっきり付与されたことにより緩和された感はありますが)
幼稚園は地元の幼稚園です。実名を挙げても大丈夫だと思うので、山王幼稚園と言うところです。
その後中学で同学年になる子たちもたくさん通っていたので、幼稚園時代というのは案外バカにならない重要性を持っていますね。
あ、スポーツチャンバラとかやらされました。僕は弱かったです。あたりまえ体操
バスで送り迎えされていたと思います。当時は幼稚園で働く人の苦労なんて全く分からなかったなぁ。

とまぁ、このくらいかな、思い出して気が向いたら追記していきます。


あと実名は許されそうな範囲でガンガンぶっちゃけていきます。個人名はイニシャルかな。

よし最初だし今日はここまで、次からはきっと長い。たくさん語らないと。
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